【古いモノ好き・安いモノ好き】 2002.2.6


 私は古いモノ好きである。骨董品といわれる範疇のものではあるが、高価なものは手が出ない。第一目が利かないから、その値段が妥当なものかどうかもわからない。

 古いモノに興味を持ち出した最初の機会は 何年前か忘れたが、当時流行りの骨董そば猪口だった。でも1個が高額。それで、安価な酒盃のお猪口を買ったのがキッカケだろうか。

 骨董お猪口収集の最初の1個は、京都の弘法さんで買った。1個100円と書かれた箱の前にしゃがみこみ、山盛りのお猪口の中から かなりの時間をかけて1個を選び出した。それは、桜の花が描かれていた。大変なお気に入りとなり、お正月やめでたい時の愛用品となる。しかし、この骨董第1号お猪口は割ってしまった。
 それから お猪口集めが始まり、お皿やお鉢へと広がっていった。

 京都の弘法さんや天神さんでは、客と店主の駆け引きがある。客が値打ちを知らんヤツと店主にふまれたら、値段をふっかけられる。で、危ない橋は渡らないことにした。この道のベテランK先輩に弘法さんに付き添っていただき、指導も受けたが、目が利かないことにはどうにもならない。K先輩もかなり授業料を支払ったと言っておられた(新しい時代のモノを古い時代のモノと偽られて高価に買わされること)。

 いいなと思ったものはかなりの高額でもある。この時点で、私は、ひょっとして目が利いているのかなと…。明治時代の手描きの作品は、人それぞれの好みもあるだろうが、ため息が出るほど「いい」ものがある。大正時代から印判が多用されるようになったみたいだ。
 1度だけ手描きの「花唐草」を見た。なんとも言えない美しさ。かなりの高額である。それにあまり出まわっていない。いつか出会いたい


 京都は熊野神社の近所に「antique blue parrot U(アンティーク ブルー パロット)」というお店がある。「U」があるのだから「T」もある。「T」のお店の方は、随分前から知っていて、骨董家具が中心のお店であった。前を通る度に 商品を外から眺め、ヨダレをたらさんばかりに憧れていた。

 いつのまにか「U」ができていた。入ってみたら、漆器、和洋の骨董陶器・アンティーク家具・インテリア用品などなど魅惑の商品がいっぱい。現代モノも少し。以来 大好きなお店「お気に入り」になった。

 お店の人は みんな親切で、いつの時代のモノかと聞くと、とても親切に答えてくださる。聞くだけで買わないお客にだって、とても親切。お商売と言えばそれまでだが、あれやこれやと見ていたら時のたつのを忘れてしまうお店でもある。目が楽しい。そして安心と信用できる良心的な価格がいい。

 お店の人と話し、時の経過とともに、だんだん買う商品の方向性が出てきた。ナンあり商品を好んで買うようになった。完品とナンあり商品では、お値段が雲泥の差。普段使いのものに1個何千円とか何万円は、きっと大事に大事に使うだろうが、粗忽者ゆえ、割ったら悔しいし、悲しい。扱いに十分気をつけているつもりでも、ふとしたことで かけさせてしまうことがある。ナンあり商品だとそういう時にも諦めがつく。完全品を稀に購入する時もあるが、めったにない。ありがたくない客かもしれない。

 最初にそのお店で買ったのは、現代もののアジアンチックな安い安い花瓶。すごおく気に入ったのでした。もちろん値段も。値段がと言った方が正確かもしれないが…。
 始めは地味なものが好きだったが、今の好みは、龍、鳳凰、麒麟、獅子を描いた陶器。なぜか強いものが好きな私。いっときは「なずな」と呼ばれる作品がすごく好きだった。なんでも気に入ったものを1枚、ひとつずつ という購入の仕方だ。1点1000円以上の商品を買う時は、とっても少ない。
 一般に人気のある「梅模様」を好きでないと言ったとき、お店の方が少々びっくりしておられた。ん?私はヘンな趣味なのかな と その時思ったのであった。

 現代モノの、人が見たら多分ペラペラと言われそうなものも時には買ってしまう。気に入ったらいいのだ。

 お店の方の指導に手伝われ、だんだんと目も肥えてきたのか「いいな」と思うと値段がはる。「私 目肥えてきた?」と尋ねたら、お店の方も「これだけ来ていただいていたら そうなってもらわんと」とのお返事。お気に入り商品の「ナンあり」が出たら知らせてね と気軽にお願いできるほど お店の方と仲良くしてもらえるようになった。

 古い時代の陶器は手描きが多い。手描きはお高い。時代とともに印判になっていく。印判には印判の良さもある。手描きの美しさも印判も、ゆったりとした時の流れを感じる。
 漆器もいい。古い時代のモノは作りが丁寧で、普段使いに使用されていたから、扱いにそんなにも気を使わなくていい。普通の食器と同じようにスポンジでささっと洗い、すぐに拭きさえすれば大丈夫だと 前にテレビで漆器職人さんが言っておられた。

 このお店で出会った、大好きな家具がある。アフリカ松の家具だ。アフリカの森林には申し訳なく思うが、素朴で一枚板を使用したテーブルやベンチには そそられる。こういうのが似合う家に住みたい。
 このお店でヨーロッパの蝋燭の蜀台、屋根についていたらしいベルなど、物欲を抑えきれずにいろいろ買った。好きなものに囲まれた生活空間は楽しい。これで掃除好きになれば言うことはないのだが。飾り好きの掃除嫌いと来ているから かなり始末が悪い。


 昔はいろんな生活用品が、1点1点手で作られていた。手作りの良さは なんともいえない趣や奥ゆかしさ、重みがある。そういうものに触れていると現代ものが薄っぺらに見えてくる。なぜだろう。

 昨今は 何でも機械に頼る時代である。手作りの「失敗」は個の責任になる。技術習得までにも大変な時間がいる。一つのものが出来あがるまでには、作る人の修行の時間も合わせると気の遠くなるような時間かもしれない。
 機械のボタンを押し間違えたら「うっかりして」で済まされてしまう。あるいは機械のせいになる。個の責任が希薄になり、個はそれに気付かない。ごまかしがまかり通る世の中になってきている と私は感じている。

 古いものに触れている時間、日本や世界の古い時代、時間をかけて物を作り、その物を慈しむ人々の生活にひとときココロが浮遊する。モノは時を越えてあり続ける。人間は消えて行く。


 人間はいったいどうなってゆくんだろう。そして日本は。

 テレビや新聞、週刊誌などの溢れる情報に振りまわされ、操作されていることに気が付いていない人の方が多いのではないだろうか。私自身、新聞社という世界に身を置いていたせいか、退職し、外の世界の人と話す機会を得て、そのことに気付くまで、振りまわされ、操作されていた方だ。今でも、かなり危なっかしいと思っている。

 日本は、自ら崩壊への道を辿っているように思えてならない。

 おお、話はすっかり脇道にそれてしまった。